米原市世継に伝わる七夕伝説
米原市の琵琶湖岸付近に「七夕伝説」が言い伝えられている地域があります。毎年7月13日(新暦)には、七夕石のある蛭子(ひるこ)神社(米原市世継)で短冊祈願祭が営まれます。蛭子神社の境内では、13日の短冊祈願祭に向け、ササ飾りに、住民らが願い事を書いた短冊を結びます。当日は、願い事の成就を祈る神事が境内で行われます。
天野川をはさんで、彦星と織星(織姫)が祀れている
「天野川(あまのがわ)」という名の川をはさんで、「彦星塚」と呼ばれる石造の宝篋印塔(ほうきょういんとう)と、「七夕石」と言い伝えられる自然石が、それぞれ両岸の神社に祀られています。
朝妻神社の彦星塚
彦星塚は、天野川左岸の朝妻神社(米原市朝妻筑摩)にある高さ約1.9メートルの石造宝篋印塔。
蛭子神社の七夕石(織姫)
七夕石は、右岸の蛭子(ひるこ)神社(米原市世継)にある高さ60センチほどの自然石をそのまま置いたとみられる石塚。
2つは、川をはさんで約500メートルの距離にあります。天文研究者は「天野川を『天の川』に見立て、彦星塚を牽牛星のアルタイルに、七夕石を織女星のベガとして配置したのではないか」と指摘しています。
彦星塚と七夕石の位置関係
彦星塚は、天野川左岸の朝妻神社(同市朝妻筑摩)にある高さ約1.9メートルの石造宝篋印塔。七夕石は、右岸の蛭子神社にある高さ60センチほどの自然石をそのまま置いたとみられる石塚。2つは、川をはさんで約500メートルの距離にあります。
天野川を星空の天の川(天の河)に見立てると、星空のベガとアルタイル、地上の蛭子神社と朝妻神社の位置は、左右逆の「鏡像」の関係にあります。 このことは、私立天文台・ダイニックアストロパーク天究館(多賀町多賀)の高橋進館長は「星図の中には、球体の表面に星を配置した『天球儀』を基に描かれたものがあり、その場合は、地上から見上げた夜空と逆の鏡像のような星図になる」と指摘し、神社の配置は、そうして描かれた星図を基にした可能性もあるとみて、「七夕伝説に合わせ、意図的に神社の配置を決めた可能性がある。この地が当時、高い文化を持っていた様子がうかがえる」としています。
実在した七夕伝説?!七夕実話?!
実は、この2つの石塚と自然石には、この世継地区に残る七夕伝説に登場する歴史上に実在したとされる2人の人物が祀られています。日本各地に、七夕伝説がたくさん残る中で、実在したとされる人物の実話ぽいエピソードが、七夕伝説というか七夕実話というケースは珍しく、この点も興味深いところです。
米原市世継に残る七夕伝説?実話?は、切ない恋物語
米原世継七夕伝説は星川稚宮皇子と朝嬬皇女の切ない恋物語
蛭子(ひるこ)神社に残る『世継縁起之叟(よつぎえんぎのこと)』によると、蛭子神社がかつて「世継神社」と呼ばれていた頃の話となります。
蛭子神社の祭神は雄略天皇の第4皇子・星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)と、仁賢(にんけん)天皇の第2皇女・朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)。
5世紀後半のころ、雄略天皇の第4皇子・星川稚宮皇子(ほしかわのわかみやのみこ)と仁賢(にんけん)天皇の第2皇女・朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)は、米原を流れる『天野川(あまのがわ)』を境にそれぞれ仏道に励んでいました。
川を隔ててはいましたが、気持ちは通じ合い2人は程なく恋に落ちてしまいます。
しかし、星河皇子の姉が朝嬬皇女の父である仁賢天皇の皇后でありことから系譜の上では叔父と姪の関係にある2人、その上、2人は修行の身、このようなことから、2人はみだりに会うこともままならないという悲しい状況におかれ、その想いは叶わぬ恋となりました。
世間一般によく知られている七夕のお話の「恋にうつつを抜かし天帝の怒りをかった牽牛と織女」に比べ、「恋を糧に修行に励む星河稚宮皇子と朝嬬皇女の生き方」は素敵ですが、なんとも切ない恋ですね。
切ない恋物語のその後
その後、平安時代初期に奈良興福寺の仁秀僧正(にんしゅうそうじょう)がこの地に伽藍を建てる際に、この2人のことを知り、皇子を牽牛に皇女を織女に見立てて、合祀したと言われています。また、彦星塚を星川稚宮皇子の墓、七夕石を朝嬬皇女の墓とする言い伝えもあり、天野川という川の名前などもあって、この地に七夕伝説が生まれした。
切ない恋物語が、隠れパワースポットに
『世継縁起之叟(よつぎえんぎのこと)』には、「7月1日から7日間、男子は七夕塚に、女子は彦星塚に、いにしえの習いに従い祈念すべし~。」、そして「7日の夜半に男女二人の名前を記した短冊を結び、合わせて川に流すと・・・二人は結ばれる・・・。」とも記されているそうです。
今でも、この純粋な2人の気持ちにあやかろうと、七夕石(朝嬬皇女の墓)に男性が、そして彦星石(星河皇子の墓)に女性がお参りする人がたくさんいらっしゃるようです。いわば、恋愛成就の隠れパワースポットとでも言うべきでしょうか・・・。
読んで頂いているあなたも、お参りに行くのはいかがでしょう?!あ、でも旧暦(新暦8月ごろ)ですよ・・・間違わないように!!(笑)
番外!彦根の彦は彦星と無関係
余談となりますが、ネットを見る中で、米原の七夕伝説が彦根の近くに在ることから、「彦根」の「彦」は「彦星」の「彦」からきていると誤解している方も有るようですが、間違いです。
「彦根」の「彦」は、天照大神の御子に天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いきつひこねのみこと)の二神がいて、このうち活津彦根命が活津彦根明神として彦根山に祭られたことに由来したとされています。天照大神が卑弥呼だという説もありそれを事実だと仮定して話を進めると卑弥呼が生きていたと推定される時代は3世紀前半、雄略天皇や仁賢天皇が生きていたと推定される時代は5世紀後半であり、200年ほど彦根の由来となった活津彦根命が古いことになります。
そして、活津彦根明神を祀った彦根山に、1603年には彦根城の築城が始まり、その時に、活津彦根明神を祀った社は移築でなく破壊されたという何とも罰当たりな真実もあり・・・。
その後、井伊家七代目当主井伊直惟の時の1734年(享保19年)5月28日、田中神社の相殿に活津彦根命を移し、8月5日、田中神社の社号を彦根神社と改めました。社紋も井伊家ゆかりの紋所、井桁、橘とし、彦根神社は彦根の惣社となりました。